Glyndebourne Festival 2024 Carmen

グラインドボーンは、ロンドン市内ヴィクトリア駅から電車で一時間強、南下したところにあるルイス駅から15分程バスでゴトゴト走ったところに広がるマナーハウスだ。敷地内に建てられた威容を誇るオペラハウスは、外壁はレンガでできていて1200名ほど収容できる音響効果のいい建物だ。1934年から続くグラインドボーン・オペラ・フェスティバルは、毎夏ここで開催される。ここは私のお気に入りの場所の一つで、夏になると足げく通うのだ。最近では、ロンドン近郊の邸宅内に建てられたオペラハウスで催されるオペラフェスティバルはいくつかあるが、グラインドボーンが一番歴史が古い。毎回、開演一時間半ほど前に到着し、庭園を散歩してから席に着くのが決まり事。木々と大地と羊と芝生から香り立つ自然の香気に包まれながら、シャンパン片手に花咲き乱れる庭園を愛でながら歩けば、夢見心地なまま歌劇場の自分の席に着くことができる。
その日は友人、ソフィア・フォミーナがオペラ、『カルメン』の肝所であるミカエラを歌うとのことで、期待に心ときめかせながら揚々と一人でグラインドボーンに向かった。グラインドボーンは幕間に食事をするのが慣例なので一人では寂しい思いをするかもしれないと心配していたら、ソフィアが楽屋から庭園に出てきてくれて夕食を共にしてくれた。彼女の心遣いはとてもありがたく私はほっこりしながら持参したピクニックを広げて彼女と一緒にほおばった。その上、ソフィアはエスカミヨを演じたディミトリ・チェブリコフも連れてきてくれたので寂しいどころかスター達と共に極上の時間に酔いしれることができた。
ソフィアの演じたミカエラは素晴らしいとしか言いようがなかった。銀鈴を振るかの如くさやかに響くその声は、ミカエラの切ない気持ちを乗せて痛いと感じるほどまでに心に響いた。今まで見たミカエラの中でも群を抜いていた。ヘロインをも使って血気に逸るカルメンとドン・ホセの狂気と、ミカエラの正気とのコントラストがこれほどまでに如実で、それだけに前者たちの悲劇を痛切に感じさせたのは、ソフィアのミカエラの手柄だと思う。
ディミトリは庭園のテーブルで話していた時は理性的で思慮深い人物に見受けたものの、舞台上では筋骨隆々の体を自慢げに披露し、これ見よがしでコミカルなエスカミヨを演じたので私は度肝を抜かれた。私が心惹かれるグラインドボーンの音楽監督・ロビン・ティツィアーティがタクトを振っていたが、彼が率いたロンドン・フィルハーモニック・オーケストラの演奏は舞台上の歌手達とカプチーノ上に浮かぶクリームとコーヒーのようになめらかに溶け合って観客を喜ばせてくれたし、私はロビンが指揮をしながら伸びあがる後ろ姿を見て幸せな気分に浸れた。彼のタクトを振る姿は美しい。たばこ工場のセットは檻のようだった。カルメンが登場時に歌う、『ハバネラ』(野の鳥、L'amour est un oiseau rebelle)を聞いたとき、中で働く女工たちはかごの中の鳥に見えた。カルメンはの「野の鳥」のごとく檻の中から自由を求めて飛び出ていってしまったのだ。出て行ったきっかけがホセだったのがなんと運の悪かったことか。
幕が下りた後はルイス駅まで走るシャトルバスで隣り合った女性といかにソフィアの歌に感動したかを一緒に分かち合って盛り上がった。バスを降りたら5月といえども厚めのコートをを着たくなるほど外は肌寒かった。
このグラインドボーンの『カルメン』は8月には異なるキャストで上演される。そこでは友人のアイガル・アクメツィーナがカルメンを演じるのでそちらもまた観に行く予定にしている。アイガルは2023/2024シーズンではメトロポリタン・オペラ、ロイヤル・オペラ・ハウス、バイエルン国立歌劇場、ベルリン・ドイツ・オペラ、サン・カルロ劇場と世界中のトップオペラハウスの「カルメン」でタイトルロールを演じた。彼女がグラインドボーンの『カルメン』ではどんな持ち味を出すのかが、楽しみで8月を今から心待ちにしている。同じプロダクションを違うキャストで観るのはオペラのまた違った楽しみでもあるのだ。次回は独りではなくロンドン在住で家族ぐるみで仲良くしている友人夫妻と観に行く予定で彼らとの再会が待ち遠しいだけでなく、夫人はピアニストで、音楽通でもあるのでオペラ談義も待ち遠しい。グラインドボーンなしには私の夏は語れない。
グラインドボーン 『カルメン』8月1日から8月24日まで上演




2024年10月25日発行のACT4、109号にて掲載
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