SEKISUI HEIM presents a concert by Royal Philharmonic Orchestra (RPO), Piano by Nobuyuki Tsujii, conducted by Vasily Petrenko at Suntory Hall on 26th May 2023
観客の拍手を浴びつつヴァシリー・ぺトレンコ氏が辻井伸行氏の手をとりながら二人で登場するとこれから始まるであろうマジカルな時間に期待が高まり心が躍った。
プログラム1曲目はピョートル・チャイコフスキー(1840-1893)のピアノ協奏曲第1番変ロ短調 作品23番だ。第1楽章と第3楽章の主要主題はウクライナ音楽の旋律で、それはチャイコフスキーが妹アレクサンドラが住んでいたウクライナのカメンカを訪れた際、同国の民謡や音楽に触れてインスピレーションを受けたためとされている。第1楽章の辻井氏のピアノは細やかさも兼ね備えながらも生命力溢れる演奏だった。それに対してRPOの演奏は出しゃばらずに辻井氏の演奏を母のように見守るかのようなパフォーマンスだった。第2楽章はさわやかな朝の森に妖精が飛び回る光景が目に浮かぶような幻想的な曲想だ。続いてロンド形式の第3楽章はクライマックスとしてテンポの速い劇的なピアノのパッセージにオーケストラが加わり最後は圧倒的な盛り上がりで観客を酔わせてくれた。RPOとぺトレンコ氏はこの作品を熟知しているような余裕があり、ぺトレンコ氏も落ち着いていた。辻井氏の比類ないエネルギーがこの最後の盛り上がりを演奏するにうってつけだった。
万雷の拍手に応えて辻井氏が選んだアンコール曲はウクライナ出身の作曲家、ニコライ・カプースチン(1937-2020)のトッカティーナ(8つの演奏会用練習曲より)。テンポが速く、リズミカルなジャズ形式で南米を思わせるこの曲は生命力溢れる辻井氏にぴったりで、プログラムのピアノ協奏曲第1番とは異なる曲想で聴衆を惹きつけた。アンコール2曲目はリストのコンソレーション(慰め)第2番で、詩情豊かなこの曲はエネルギッシュなトッカティーナとは好対照でアンコール選曲に細やかな気遣いを感じた。辻井氏は立ち居振る舞いそして表情がチャーミングだ。後方の観客達にも丁寧にお辞儀する姿などから誠実さや優しさが滲み出ていて日本人の誇るべき特質を体現していた。
プログラム後半はディミトリ・ショスタコーヴィチ(1906-1975)の交響曲第8番ハ短調作品65。この作品は第二次世界大戦中のスターリングラードにおける独ソの戦い最中に作曲され、戦火や人々の苦悩、また戦死した民衆一人一人の生命の大切さを想い描いている作品だ。登場時のぺトレンコ氏の面持ちが真剣だったのはテーマが重いためだったからか。戦火を表す怒涛のような不協和音と戦火の後、呆然自失するような静けさで締めくくられる第1楽章はイングリッシュ・ホルンのソロと、最高の音響効果を誇るサントリーホールならではの打楽器の響きが印象的だった。第2楽章のスケルツォではぺトレンコが楽しそうに指揮しているのと打楽器の響きと切れの良い終わりが心に残った。第3楽章は機械的な感じのするスリルとサスペンスに富んだ曲調でトランペットのソロが心に響いた。第4楽章は、強打するような勢いの強音で始まり、その後、弦楽器、木管楽器、金管楽器がそれぞれ対旋律を奏でてゆき、第5楽章では最後に長調に変わるが、勝利や戦争終結の明るい希望ではなく生き残った人間のもぬけの殻的な虚脱感がした。ロシア・ウクライナ戦争が一年以上も続き、侵攻や惨殺が行われている現在、戦中がテーマのこの曲の重みが心にのしかかってきた。
RPOのアンコール曲は再びウクライナ出身の作曲家、ヴァレンティン・シルヴェストロフ(1937-)が作った沈黙の音楽より「夕べのセレナード」。ぺトレンコの指揮もRPOの演奏も繊細で上品で私的な哀歌の細やかな音が心に沁み入るように演奏する彼らはなんと洗練されていることか。
今宵はリスト以外は全てロシアの作曲家の作品だった。ショスタコーヴィチ交響曲第8番やウクライナ作曲家の作品を使ったアンコール曲はロシア・ウクライナの戦地に思いを巡らせる良い機会となった。ロシアの侵攻後、チャイコフスキーがロシア作曲家という事で彼の曲がボイコットされたりするが、チャイコフスキー自身、ウクライナの音楽にインスピレーションを受けてそれがピアノ協奏曲第一番に如実に表れているなど、彼の曲をボイコットすること自体ウクライナの音楽もボイコットしている事に繋がるわけで、音楽・文化と政治は一緒にすべきでないと再確認した夜だった。
それにしてもチャイコフスキー、シルヴェストロフ、ショスタコービチ、カプースチンの、時代も曲想も違うロシアの名曲4曲に心震わされた。ロシアの音楽の懐の深さには恐れ入る。
特別協賛: セキスイハイム
辻井伸行オフィシャル・エアライン:全日空輸株式会社
後援:ブリティッシュ・カウンセル
企画・制作:エイベックス・クラシックス・インターナショナル
制作協力:インタースペース
取材協力:エイベックス・クラシックス・インターナショナル、Valerie Barber PR
2023年6月3日付 J News UK (https://www.j-news-uk.com/) に掲載
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