Interview with the soprano opera singer, Eri Nakamura, who sang the title role of Madama Butterfly at the Royal Opera House, Part 2
2022年6月・7月に英国ロイヤル・オペラ・ハウス(ROH)における『蝶々夫人』でタイトルロールを歌い、その歌唱力と演技力で観客を魅了した中村恵理氏。その彼女がROHでの公演が続く中、忙しいスケジュールの合間を縫って、インタビューに応じてくれた。場所はROHのステージドアを入った奥にあるスタッフ用のカフェ。そこは、リハーサルや練習に向かうオペラ歌手達がせわしく闊歩し、またコーヒーを飲むROH関係者で賑わっていた。テーブルの向こう側に凛と佇む中村氏は品があり、首から流れるスカーフが印象的だった。インタビュー後半ではROHの『蝶々夫人』とは離れた質問を問いかけてみた。
中村恵理
プロフィール
ソプラノ・オペラ歌手。大阪音楽大学および同大学院声楽科卒業後、新国立劇場オペラ研修所、オペラ・スタジオ・ネザーランドでの研修を経て、2008年から2010年まで英国ロイヤル・オペラ・ハウスでジェット・パーカー・ヤング・アーティストとして研修。2010年から2016年までバイエルン国立歌劇場のソリストとして専属契約し主要キャストとして活躍。これまでにウィーン国立歌劇場、英国ロイヤル・オペラ・ハウス、新国立劇場、ワシントン・ナショナル・オペラ、ベルリン・ドイツ・オペラ、オヴィエド歌劇場、トゥールーズ歌劇場、ザルツブルグ州立歌劇場等で公演。日本国内では2012年度アリオン賞、2015年度芸術選奨文部科学大臣新人賞、2017年JXTG音楽賞洋楽部門奨励賞、2017年度兵庫県芸術奨励賞の各賞を受賞。大阪音楽大学客員教授、東京音楽大学非常勤講師。
聞き手:内田美穂
ーーROHのジェット・パーカー・ヤング・アーティスト・プログラム(以下JPYAP)の出身と伺っていますが、そこでの研修体験について教えてください。
一言でいえば、JPYAPでの研修体験は私の宝です。でもこれは今だから言えることなのです。研修中はカリキュラムが厳しくて本当に苦労しました。英語を学びながら1日に6セッションをこなした日もありました。体力的にも精神的にも辛くて2回ほど倒れました。1度目は4か月目に入った頃、血糖値が下がって、あれは多分栄養失調だったと思います。
技術的にもいろいろ学びましたが、研修中に学んだ一番大切なことは「自分の身は自分で守る」ということです。当時SNSが流行ってきた頃で、ROHからはメディアやSNSには気をつけなさい、と研修初日に言われました。舞台に立つと、インターネット上で事実でないことを書かれたり、中傷されたりして、孤独と不安に襲われ辛い思いをしました。しかしそういう言葉に反応すると、自分自身が傷つくことを知りました。そして不安定な精神状態が歌声に影響することにも気づきました。研修中はROHが外界から守ってくれましたが、修了後は自分で対処しながら、自分と自分の声を守らなければならない、ということを研修中に学びました。
研修後ドイツで働くことができ、また今でもこうやって歌うチャンスがあるのは技術的にも精神的にもROHで育てて頂いたからだと思っています。
ーー専属契約歌手として所属していたドイツのバイエルン国立歌劇場での生活について教えてください。
公演に関わっている時は10時に稽古入りして午後1時には昼休みがあり、夜は再び稽古、または公演で歌うというのが専属歌手の生活で、劇場に住んでいるような感じでした。休みで家にいても代役で劇場に飛んでいかなければならないこともありました。ある時は3年も歌っていなかった『ドン・ジョヴァンニ』のツェルリーナの代役を公演当日に頼まれたこともあります。その時は本番の幕間に第2幕の最後のフィナーレの暗譜をしたりして大変でした。
ーー伺っているとオペラ歌手の生活は大変なことの連続のように聞こえますが。
確かに大変なのですが、それにも勝る喜びがあります。カーテンコールを浴びると嫌なことは全て忘れてしまうのです。褒められて嬉しいというよりもカーテンコールによって人と繋がるという事を実感でき、それが本当に嬉しいのです。
ーーこれからやってみたい役は何ですか?
私は本来軽いソプラノですが、ロンドンやミュンヘンで様々な作品に取り組んだ結果、今はヴェルディやドニゼッティなどのイタリア・オペラの役を歌いたいと思っています。それは私の音楽的性格にも合っているように思います。蝶々さんのように、情感のこもった、内面に激しさを持つ女性の役がやりたいです。『椿姫』のヴィオレッタなど悲劇に向かっていく際の内面の叫びを表現したい。ドイツ・オペラはオーケストラ編成が大きいので、バイエルン国立歌劇場でグレーテルなどを歌ったことはあるものの、私の声には負担が大きいかな、と思います。
『蝶々夫人』はプロダクションとしてはROHでの作品がまだ2つ目でした。蝶々さんの役は音域のアップダウンが激しく自分の快適な音域で歌えません。喉に負担がかかるので数多くは歌えないのですが、チャンスがあれば他のプロダクションでも歌いたいです。
ーーどういういきさつで音楽の世界に入られましたか?
私はずっと音楽教員になりたいと思っていました。オペラ歌手には全く興味がありませんでした。ピアノを習っていましたが、指が弱く練習が嫌いであまり上達しなかったので吹奏楽部に入ってトロンボーンを吹いたり、コントラバスを弾いたりしたこともあります。目的は音楽教師の資格でしたから特に一つの楽器に秀でている必要もありませんでした。
そうこうしていると阪神大震災が起こりライフラインが止まったので生活に支障が生じました。精神的にも打撃を受けてピアノの練習が出来なくなり、音大なんてとても行かれない、と思いました。すると、高校の音楽の授業の一環として合唱で『第九』を歌う機会に出会ったのです。その時、私はソプラノに配属されました。そして『第九』の練習をしていると、他の人より高い声が簡単に出ることに気が付きました。先生方の間でも「教員になりたいわけで、器楽奏者になりたいのではないのだから、声楽科で受験しましょう」という事になり、自分でも夏期講習などで一生懸命勉強して声楽科で大阪音楽大学を受けて合格しました。
――オペラ歌手を目指したのはいつでしょうか?
大学に入ってからもオペラは特に興味はなく、自分から積極的に観に行ったりもしなかったのですが、当時の私の先生が「あなたは声が大きいからオペラコースに行ったら?」と勧めて下さいました。勧められるがままにオペラのクラスに行ってみました。すると、それまではレッスンではピアノの伴奏と先生がいて一人だけで歌っていたのですが、オペラのクラスではデュエットや重唱など人と一緒に歌うことができました。それが、すごく楽しい、と思いました。高校の吹奏楽部でもアンサンブルで誰かと一緒に演奏するのが好きでしたので、人とのつながり、皆で一緒に何かを作りあげることが好きなんだと思います。次第に、歌が上手になりたい、と思うようになって結局は大学院ではオペラ科に進みました。
大学院を卒業する時には音楽教員よりオペラ歌手になりたい、と思っていました。今まで学費を払い続けてくれていた両親とは教員になる約束をしていました。しかし諦めきれなくて、駄目で元々という思いで新国立オペラ研修所の試験を受けてみました。落ちたらオペラ歌手としては芽がないという事だから諦めることができると思ったのです。
そうしたらなんと合格したので、上京し3年間東京で研修することができました。修了後、ヨーロッパでいくつかオーディションを受け、オペラ・スタジオ・ネザーランドから契約をもらいアムステルダムに移住しました。
アムステルダムでの研修中に、ROHの研修機関であるJPYAPの存在を知って、受験し合格しました。そして2年間のROHでの研修中にオーディションを受け、バイエルン国立歌劇場の専属歌手になりました。2016年からは、フリーランスで活動しています。
音楽そしてオペラが私の人生に奇跡的な出来事をもたらし、周りの方々の支えもあってここまで来られました。音楽教員になっていたら私は関西から出ることはなかったと思います。
――努力もなさっているし、実力もおありで奇跡ではないと思いますが。
努力は誰でもしていると思います。私の場合は心と体の準備ができたタイミングで良い先生方、メンター達、マネージャー、良い友人たちと出会うことができました。そして彼らの助言を私が受け取ることができました。
周りの方々に恵まれたことは本当に幸運で私は皆に作ってもらったという感じがしています。
インタビューを終えて
努力家で人とのつながりが好きでまたそれを大事にしている中村氏はとても謙虚な人に思える。自分でも奇跡のような出来事が起こってここまできた、という彼女は確かに運も良かったのであろう。しかしその奇跡は決してまぐれで起こったことではなく、彼女の才能と努力が引き寄せた賜物である事は話していてよく分かった。彼女の人柄を垣間見て益々大ファンになってしまった。これからも目を離さず応援していきたい。
2022年8月31日付 J News UK (www.j-news-uk.com ) に掲載
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